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【明石邦彦のつぶやき】太田誠一さんの逝去 |
2024/12/12 |
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福岡から訃報がもたらされた。誠一さんが亡くなったとニュースで大々的に取り上げられたそうだ。関東圏に住んでいる人たちにはあまり関心ない話題であろう。彼は政治家である。衆議院議員のときは農水大臣などを歴任し、引退した。山崎拓さんとは8つぐらい年下だ。引退後は経済に強みを持っていたから大学の講師も務められていたようだ。私が小学生の頃は西新近くの城西橋に住んでいた。太田家とは家が隣同士で、同い年の幼馴染である。私が香椎に移る5年生まではよく遊んだものだ。隣同士と言っても母屋は太田家のもので、コの字型をした屋敷だった。コの字を二つに分けて使用していた。コの字の真ん中に梅の花のような直径3m位の池があり、その上を塀が通っている変則的な隣同士であった。その横には農園のような敷地(200坪?)があり、子供たちは穴を掘って落とし穴を作り、落っことしゲームのような遊びを繰り返していたように思う。誠一さんの父上は晴之助さんで九州大学農学部の先輩であり、博多大丸の社長をしておられた。また、奥様は俊子さんで、桜内義男さんの妹さんだった。だから、誠一さんは幼い時から「社長になる。政治家になる」と夢を追い求める姿勢があった。私はそのようなことは想像できないので、一緒に虫採りや遊びで夢中になっていた。会社の送り迎えのために立派な車庫があり、また、珍しい果物(マスカットやメロンなど)のおやつが出てきたりした。我が家の食べ物とは明らかに違うので、太田家はお金持ちなんだということを感じていた。このような関係もあり、清之助さんご夫妻が私たち結婚式の仲人でもあった。
さて、小さい時の思い出はやはりカブクワ採りであった。清之助さんが運転手さんを手配してくれて私の長兄を道案内に油山まで虫採りに行った。大きなタブノキではミヤマクワガタ、ノコギリクワガタを採り、クヌギの木ではカブトムシを採ったのが思い出深い。特にクヌギの木にカブトムシが密集していたので、誠一さんがクヌギの木に登り採集した。私は一歩出遅れたこともあり、下から見上げていたら、バラバラバラとカブトムシが落ちてきたのには驚いた。二人で大きな砂糖の缶に入れ持ち帰った。分けようと開けたら下の方のカブトムシは酸欠で死亡していた。缶の蓋に穴はあけていたのだが、詰め込み過ぎだった。酸素が必要なことを初めて実感した。
その後、彼は亀井県知事の娘さんと結婚し、政治家への道を駆け上っていった。私が佐賀に住んでいた時、選挙で兄達からお願いされて大学の同級生などに電話をかけて投票をお願いしたりしたものだ。そのような活動に彼からお礼の電話がかかってきた仲でもある。兄も父も太田家の財産管理をする会社に勤めていたので、選挙の時は父も兄も個別訪問や選挙資金の調達に苦労していたようだ。父から選挙はお金がかかるものだと愚痴を聞かされた。なんでも博多駅近くの土地なども選挙資金になったと話をしていた。選挙というものにはお金がかかるということを知ることになった。
最後に、誠一さんとお会いしたのは兄である長男の葬儀の時であった。お互いに古希を過ぎての懐かしい話で挨拶を交わした記憶がある。誠一さんがどのような病気であったのかは知らないが、亡くなられたのは東京の病院だそうだ。子供さんが福岡ではなく、東京圏にいらっしゃるのかもしれない。幼馴染の訃報を聞くと身に応えるものがある。ご冥福をお祈りいたします。
写真:1.油山 2.カブクワ採り 3.誠一さん
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