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【明石邦彦のつぶやき】自分の殻を打ち破ったサマーキャンプ |
2024/7/31 |
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火野正平さんの「こころ旅」が今年もスタートしたので、投稿原稿を書こうと準備していたら腰痛のため僅か1週間でリタイヤーされた。11年も全国を回られてお疲れなのだろう。最近、BSの午後5時の番組で火野さんが以前訪れた地区をディレクターらしき方が訪れ、現在の姿を撮って放送していることを知った。昔の番組が再放送され、懐かしい半面、10年もたつとそれなりの変化があることを如実に感じた。さて、火野さんの腰痛はもう改善しないのではと思い、準備していた原稿を埋没させるのはもったいないとして取り出してみた。もしも復帰されたら手直しして再チャレンジをしてみよう。ただ一つの心配事は私の命が維持されているかどうかはわからないことだ。そのうち、「なくなった主人(父)が書き留めておいた文章を発見しました。亡き主人(父)が見たかった景色をぜひ見せていただきたい」と妻(子)が原稿を送ることになるかもしれない。また、火野さんに代わる人が登場するのかもしれないが、私なりには原稿を残しておこう。ただし、私の家族がこのUSBも見ずに捨てたらお終いだけれど。まさに「陽の目を見ず」となる。
例えばこのような出だしかな。
以下、亡くなった夫(父)が書いていたものです。
私が訪ねていただきたい場所は大分県玖珠郡久重町にある宝泉寺観光ホテル?です。
45年程前になりますが、そのホテルでは久留米大学医学部小児科の山下文雄教授が主催される「自閉症児のためのサマーキャンプ」が毎年開催されていました。私の長男は今でいう自閉症児で、人とのコミュニケーションがうまく取れません。私は普通児とは言葉が通じるので、遊びはできますが、言葉を理解できない長男(小学生)との意思疎通には苦労していました。このため長男の将来が見通せず、心の中は不安だらけでした。「何とかしたい」という思いは持っていましたが、こればかりはどうにもなりません。
私は川崎の中央研究所に11年間在籍し、その後佐賀工場に異動になりました。見かねていた義理の母(医者・福岡在住)が九州大学医学部で同じ研究室だった山下先生のサマーキャンプを紹介してくれました。キャンプに参加するには親の面接があります。私は1週間もキャンプで拘束されるので、ふくれっつらで面接を受けたのでしょう。結果は不合格でした。私にもプライドがあります。しかし、ここは平身低頭しかありません。その後、ようやくキャンプへの参加を許されました。
初日のキャンプから驚きの連続でした。子供とスキンシップができるようにと歌に合わせた踊りの習得から始まりました。まさに踊る宗教です。私のプライドが木っ端みじんになった、鮮烈な体験でした。昼間はボランティアさんたちが子供たちの面倒を見てくれます。夕方に我が子の昼間の様子を担当のボランティアさんから聞きます。ボランティアさんは子供の失敗について一切触れず、よかった点のみ話をしてくれました。我が子にはこのような可能性があるのだと気づき、話を聞きながら涙が溢れてくる私がいました。その後は、他人様の子供たちとホテル周辺の丘にハイキングに出かけ、九重の自然をあるがままに受け入れました。夜には参加した親たちや福祉関係の指導者などとの交流で、自分の進むべき道を探りました。その間に、インディアン踊りやレナウン踊り等はみるみるうちに上達しました。何年か続けると、子供と遊べる父親に変身し、最後には新しく参加された親たちに体験を話すことができるようになりました。まさに自分の殻が破れた思いがしました。これは一種のST(Sensitivity Training)だと理解しました。ただ、キャンプが終わりに近づくと部屋や大広間がおしっこ臭くなります。子供たちの失敗の結果です。ホテルをこんなに汚して大丈夫かなと思ったくらいです。この話は45年前の話ですので、ホテルは建て替えられたことでしょう。今はどうなっているのかを「見てみたーい」(駒村アナ調)気持ちです。また、佐賀からの行き帰りにいつも見ていた宝泉寺駅は宮原線が廃線となった今でも残っているようです。鄙びた駅舎を見ながら、将来は人里離れた山奥で障害のある息子とひっそりと暮らさなければならないのではと惨めな気分に陥ったものでした。その時から考えると今は別世界にいるようです。長男は川崎市の公務員となり、私は妻とともに知的障害者のために社会福祉法人を設立・運営するほどになりました。キャンプを紹介してくれた義理の母(102歳で永眠)には感謝・感謝しかありません。
さて、コロナが蔓延する前に妻と共著で「地域に生きて」という本を出しました。その表紙に長男が定時制高校時代に書いた山の絵(展覧会で銀賞獲得)を使いました。この絵には奥多摩の山々という名前がついていました。あらためて長男に「この絵は奥多摩のどこを描いたの?」と尋ねましたところ「奥多摩ではありません。九重のやまなみハイウエイです。」とのことでした。よく見てみると国道387号線(大分県宇佐市と熊本県熊本市を結ぶ)の標識が小さく描いてありました。間違いがわかってから、宝泉寺温泉は家族にとっても、私にとっても思い出深い場所であったと理解いたしました。
最後に、火野正平さんの腰痛が治り、再度、全国の皆さんの思い出深いところをめぐっていただくことが続きますようにお祈りいたします。
このような言葉で結ばれていました。私たちはこころ旅の番組が長く続くことを願っています。
写真:1.宝泉寺駅舎跡 廃線後立て直し 2.やまなみハイウエイの表紙
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