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【理事長 明石邦彦のつぶやき】喪中の手紙から |
2023/1/16 |
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11月から12月にかけて喪中の挨拶が来る。今年は本人が亡くなったことを知らせる訃報が3通あった。奥様から2通、旦那様から1通である。
一番驚いたのは大事な虫友達が5月に亡くなっていたことである。昨年の賀状には車椅子で蝶の写真を撮るとおっしゃっていた方なので、いささかショックである。いずれ私も足が不自由になると考えており、車上から虫仲間に花や枯れ枝での採集を指示するつもりだった。この例は足が動かなくなることで昆虫採集期間は短いものになるのだと知った。彼には昨年6月にクロサワヘリグロハナカミキリを採集したので、「虫取り元気にやっています。珍品を取りました。あなたのカメラ撮影の方はいかがですか」と賀状交換のメールでお知らせしようと思っていたが、その前に他界だったとは・・・。大変残念なことである。この方は味の素の生産技術研究所でお世話になった。エンジニアリングや発酵、処理が集まった組織でわが社のアミノ酸生産技術の粋を集めた組織であった。私は発酵部門で当時生産が必須となるフェニールアラニン(Phe)の発酵生産の研究であった。彼はその時に所長をされていた。多分、甘味料のアスパルテームの合成から設備までを考えるエンジニアリング部門の担当であった。上司と部下の関係であったが、二人の趣味が虫取りであった。カミキリと蝶で、専門分野は異なっていても自然に親しくなった。その後、Pheの発酵法が九州工場に導入されることになり、私は九州工場に赴任した。私が関知しない所で、アスパルテームの特許権で彼と会社が紛糾したが、個人的な付き合いとは別なので、賀状を交わしていた。彼からはゼフィルス(ミドリシジミチョウ)の写真付きで賀状が送られて来たりしたものである。私が福祉に身を投じても長く付き合ってきたので、非常に残念なことである。会社を辞めて20年近くの賀状交換であった。
また、奥様からの訃報は元専務の方である。この方にはWE-21(味の素の長期成長戦略10か年)でお世話になった。あるとき私に言われた言葉が印象的だった。「この会社は東大でないと出世しないからな」という言葉であった。私は驚いて、「技術系の特進者に言う言葉か!」と思ったが、その当時の出世の歴史を見るともっともなご託宣である。また、この方に感心したことは鈴木家の当主からゴルフの誘いがあると絶対断らないことだった。私にはとてもできないことだ。ただ、ゴルフがそれほど上手だという評判は聞かなかったけれど・・・。このような習慣は江頭社長時代にすべて消し去られ、風通しの良い会社となったように思う。
なお、旦那様から奥様の訃報は一つあった。この方はヘビースモーカーであったので、それが原因ではと思ったりした。私より若い方なので、自分の人生が残り少なくなったことを身につまされるお知らせである。彼女はタバコをスパスパ、お酒もグイグイのタイプで意気軒高な女性であった。研究所の研究企画部(私は本社経営企画部兼務)で飲み会があり、本社から駆けつけたのだが、飲むピッチが速すぎて私は完全に酔いつぶれてしまった。帰り際までまだ意識もあったので、車で帰ったのであろうが、後はあまり覚えていない。塚越の踏切付近にて車内で吐いたのであろう。車から降ろされたようだ。目が覚めたらカバンや眼鏡もどこかに吹き飛んでしまっていた。真夜中、奥様に迎えに来てもらい、相当私を捜したようだ。次の日は警察に紛失物届を出して、二日酔いで頭ガンガンだったことを覚えている。当時の私は経営企画部と研究所の研究企画部を兼務していたので、会社の重要な文書を作成していた。そして、 このような重要報告を書き込んだCDロムなどを持ち歩いていた。そのかばんを紛失したのである。今なら情報紛失で懲戒処分である。幸いにしてかばんは警察に届けられていたので、命拾いである。次の日に財布を調べてみると1万円札が1枚なくなっていた。車を汚したので、差し出したのかもしれない。えらい醜態であったので、思い出深い。この方も2次会では大変だったことを付け加えておく。粋がって飲むとロクなことはないと大いに反省した。
正月明けて、訃報ではないが、息子さんから代理の手紙が届いた。内容は父が入院し、賀状をかける状態ではないので、これからの賀状も遠慮したいと書いてあった。長く闘病されているのであろう。2年ほど前に電話で話をしたときには体調が思わしくない旨話されていたが、病気が進行したものと思われる。研究企画部では直接の上司であった時期もあった。私の退職後の仕事にも理解していただき、多くの支援をいただいたことに感謝せねばならない。家が昔の庄屋さんなので、畑での無農薬野菜の栽培や近所の人と花の栽培などをやっている話をしたことが思い出される。
人との付き合いは色々で思い出もいくつかはあるものだ。お互いの人生の記憶の1シーンになればよいことだ。
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