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【理事長 明石邦彦のつぶやき】寺井日記より(福高100周年記念本) |
2017/6/22 |
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高校の創立100周年となり、記念出版として寺井日記が出版された。物語は旧制中学の生徒である寺井少年が昭和16年から昭和21年までの間に書きとめた日記を次世代へのメッセージとして、また最後の章にペシャワール会の中村哲さんが若い人向けへの呼びかけをまとめられたもので構成されている。戦中の若い中学生が多感な時期に、友とよく語らっている姿、読み漁った本などが書き記され、時代の中で懸命に生きようとした姿を浮かび上がらせている。
私にとっては福岡大空襲での自分の家族に思いをはせる日記の日々であった。私が生まれた昭和20年8月29日からさかのぼること2か月前の6月19日の夜11時から始まった大空襲がとりわけ興味深いのである。中学4年生の生徒が空襲で焼けた範囲(博多駅から中洲を含む西新町まで)を克明に記録し、2時間の爆撃の間に多くの死者が出たこと(記録によれば死者902人、行方不明者244人)を記している。市内の中心街がほぼ全滅となり、多くの人が焼夷弾を消したり、燃え盛る炎の中、命からがら逃げ出したりしたのである。その為に朝が白むと多くの市民が疲労困憊していたと記されている。
私の家族は奈良屋小学校近くに住んでいたので、兄弟は奈良屋小学校に通っていた。当然のことながら焼け出され、東公園まで逃げ延びたと聞いている。母はその時8か月の身重だったので、大八車のようなものに乗って、逃げのびたのであろう。お腹の中でどのような気持ちで自分はいたのだろうと思う。ただ単に母体が命からがらで逃げたので、「酸素が足りません!」と思っていたのかもしれない。また、21日には米軍機が高射砲の届かない高い位置で空襲による焼け野が原の航空写真を撮っている様子や23日8時過ぎに爆弾が落ち、19日の空襲の犠牲者も含まれると思われる死体が奈良屋小学校の校庭に200体も並べられていたとの話である。敵機による機銃掃射による死者や8月5日にB29がグアム島から600機発進したとの情報、大本営から7日の午後3時に広島に原爆が落とされたとの発表があったことが記されている。12日には広島から返ってきた友より広島全滅の報がもたらされ、いよいよ15日の玉音放送への流れとなっている。そして、玉音放送後、「神国破れたり」という彼の思いが長々と綴られている。中学時代の教練や軍需産業への勤労奉仕していた時から培われた彼らの価値観が大きく崩れることになった時に、これからのことを友と語り合う様子が描かれている。特に、箱崎の浜で無念の涙を流し、亀山上皇が蒙古襲来時に敵国降伏を祈願した額が掲げられている伏敵門に立ち、祈願したとのことである。どのような思いでこの4文字(敵国降伏)を見つめていただろうか。当然のことながらこの時代の福中の生徒たちは頼山陽の解釈による王道と覇道の違いを認識していたことだろう。非道なる米国の武力により自分達が屈服し、日本の徳をもってしては他国を従わせることはできなかったと。しかしながら、駅前に立つ白衣の傷病兵を目撃するたびに「日本は戦に勝たずにかえって良かった」と心の中で叫ぶ自分がいることをと記されている。戦争の非情さと平和の尊さを考えさせられる内容である。
こんな終戦前後の時の経過を追うことにより、自分が生まれてきた時の状況を窺うことができた。そういえば、小学校の2-3年生の時に「春」と題する作文を書く宿題がでた。私は「戦後の春」と称して「これからは日本の復興のために頑張らねばならない。自分は自分の力を蓄え、復興の一員として頑張る」と書いたら、新聞の受け売りと思われて、お褒めの言葉ももらえず、誰も相手にしてくれなかったことを思い出した。
それに比べてこの時代の人たちは人生の色々を見聞きし、精神的にも老たけて、ずいぶん大人であったようだ。
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