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【理事長 明石邦彦のつぶやき】The challengedは誰にでも求められるもの! |
2016/12/5 |
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個別支援計画の制度が確立して、個々の利用者に沿った色々な支援が計画書に書き込まれるようになった。グループホームの利用者にも適用されて、本人合意で支援計画が作られている。ただ、なんでも「できない」から支援が必要と書くことには異議を感じる。
自立のために出来そうなことを利用者に教えるには根気のいることになるかもしれないが、獲得してほしいものである。何度も工夫を加えながら試みてもできない場合は困難と判断し、支援する態度で臨みたい。利用者が出来ると思われるのに、支援してくれるものと期待している態度はよしにしてほしいものだ。ただ、利用者の自尊心は大切にしたい。利用者にも愚行権があるのはわかっているのだが。さて、私はグループホームが終の棲家ではないと思っている。一人暮らしや好きな人との共同生活など、外に出て困難と闘いながら人生の豊かさを追求してほしいと考える。ある人の支援計画に「私は将来家庭を持ち、独立したい。」と書き込まれていた。その為に支援員といっしょに努力する目標が書かれていた。「①自室の清掃に努める。②支援を求めることと自分でやるべきことの理解を深める。③計画性あるお金の使い方を学ぶ。」と記入されていた。とりわけ、②のことが書かれている文章を見つけて、ほっこりした気分となった。とりわけ、若い時代はできそうなことにチャレンジし、自立のスキルを獲得してほしい。やれないものは手助けするが、獲得する意欲は失わないでほしい。利用者が多様な場面で意思決定ができるように支援していきたいものである。また、高齢者は出来ることが出来なくなる時期が必ず来るものである。当然のことながら視力や筋力の衰え、失禁などが散見される事態が来る。自己のプライドをくすぐられながら、出来ていたことが急激に衰えることのないように配慮した支援が新たに加えられるのも必要と考える。
昨年、浅野史郎さんの講演を聞いたときにThe Challengedの意味を教えられた。以前、財務省の勉強会に招かれた時、竹中ナミさんと同席した。彼女が障害を持つ人を表す米語として紹介したようである。その言葉には「挑戦という、使命や課題、挑戦するチャンスや資格を与えられた人」の意味があるようである。私なりには「神によってその人が授かった障害を乗り越えられるようにチャレンジする姿勢を持つ人」とも解釈できる。障害児を授かった私自身は「神様がお前の試練のために障害児を授けたので、頑張るように。」と考えていたが、障害者本人にもその考え方が適用できるのだなと思った。障害者は何もできない人では決してないはずだ。親はマイナス思考で考えるのではなく、本人の可能性を開いていく親であってほしいと願う。ある障害者が「障害は不幸ではない。不便であるだけである。」と言われた。支援者は不便解消ためのささやかな手助けこそが大事と感じた。あらためてノーマライゼーションの意味を噛みしめた。
さて、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」での殺傷事件をうけ、神奈川県が設置した第三者委員会が報告書を提出した。毎日新聞は11月25日夕刊の第一面に取り上げていた。「園の対応は不十分」の文言は施設運営をしている人たちにどのように響くだろうか?
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