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あおぞらブログ


【明石邦彦のつぶやき】戦略作りは一本化が必要 2026/10/5
 戦争(事業においても同様)において戦略の良し悪しが勝敗を左右することは昔から知られていることである。最近、NHKの大河ドラマ(豊臣兄弟)を見ていた。場面は黒田官兵衛(隠居して如水)が荒木村重の謀反を翻すために有岡城を訪れ、説得を試みた。しかし、村重の信長に対する反旗は強く、交渉は不成立に終わり、土牢に幽閉された。官兵衛が戻らぬことを聞いた信長は激怒し、嫡子の松壽丸(後の黒田長政)を殺すようにと竹中半兵衛(重衡)に命じた。しかし、寝返ったと思わない半兵衛は官兵衛を思い、松壽丸を匿った。後に、有岡城が開城され、黒田官兵衛は助け出されることになった。官兵衛は息子を助けてくれた半兵衛に感謝し、秀吉の参謀(軍師)として活躍することになる。また、竹中半兵衛は自分の死期が近いことも悟って、自分の後に秀吉を支える軍師(戦略家)として官兵衛を推挙したのであろう。官兵衛は秀吉の信頼を獲得すべく、次々と布石を打って、秀吉の天下取りに大いに助けることになった。また、竹中半兵衛は2人の戦略家の間で戦略に差異が出ると全軍が動けないことを理解しているので、官兵衛の策をとるようにした。半兵衛の配慮のおかげで才気煥発の官兵衛が秀吉軍営の前面に出てくるようになった。後の話となるが、二人の兵衛(半兵衛・官兵衛)の子供である黒田長政と竹中半兵衛の子供である重門は幼馴染として育って仲が良かったのであろう。関ケ原の合戦では重門は初め西軍に属していたが、長政が東軍に誘ったとされている。そして、二人は東軍の最前線である岡山に陣を張った。長政は西軍の武将に調略を行い、東軍に寝返らせることに成功した。また、開戦にあたっては最前線で戦況が良く見え、狼煙を上げるなりしたようである。なお、石田三成の有力部下であった島左近を自分が鍛えた鉄砲隊により、殺害するという大きな戦果を挙げた。今でも両家の末裔はつながりがあるようである。
 さて、話を元に戻すと両兵衛が健在(半兵衛が若死にしなかったと仮定)であって、秀吉の戦略を担っていたら意見の違いで、ゆくゆくは衝突が避けられなかったのではないかと推察する。同じ軍の中では、互いに競争意識もあるので、嫉妬心が芽生えるであろうし、上司の覚えの違いも出ると思われる。結果としては、両雄並び立たずの感がする。
 また、中国の三国志を読むと臥竜(諸葛孔明)、鳳雛(龐統)という二人の有能な軍師の話が出てくる。蜀王となる劉備は軍師として諸葛孔明を三顧の礼で迎えたのは有名な話である。劉備は龐統を後に得るのであるが、龐統にはそれほどご執心ではなかったようである。龐統は孔明より2歳年上で、見た目が悪い?こともあり、最初は劉備に抜擢されなかったと言われている。呉の魯粛は龐統の能力が抜きんでているのを知っていたので、「龐統は大役を任せてこその人物」という推薦を劉備に送ったこともあり、軍師の孔明と同等の処遇を受けることになった。また、龐統は遅れて出仕した性で劉備からの信頼を得るのも苦労していたようである。劉備の孔明に対する信頼があまりにも厚いのを知ると龐統は大いに嫉妬し、対抗意識を燃やしたことが推察される。龐統は蜀の国を作り上げるための第一の功労者となるのであるが、歴史上では長生きした諸葛孔明の方が戦略家として有名である。龐統は益洲攻略(蜀への入国)で国主の劉璋の国を奪い取るために知恵を絞ったようである。龐統は清濁併せ呑む性格であり、精錬潔白の孔明とは違った戦略(劉璋を殺すなど)で劉備に献策し、入蜀に貢献したようである。軍師である限り、戦略・戦術のよしあしを比較し、孔明に対する対抗意識は心の中で強く出ていたこともあろう。将来、蜀王となる劉備の能力ではこの二人を使いこなすことは大変むつかしいと予測される。幸いというべきか、龐統は雒城の戦闘で流れ矢にあたり亡くなった。36歳の若さであったという。龐統には小さい時から能力が際立ったものがあり、鳳雛とあだ名(道号)があった。龐統は劉備からもらった馬に乗って、戦場に向かった。途中待ち伏せに会い、落命した。その時、龐統がその場所の地名を聞いたところ落鳳波(後の創作だと思う)と言われたそうだ。鳳雛というあだ名から不吉なところとして引き返そうとした時の戦死である。死因は流れ矢というが、劉備の立派な馬に乗っていったために矢が集中したともいわれる。いずれにしても歴史書であるから創作も多い話だ。やがて劉璋から国を奪った劉備は今でいう成都に入り、蜀の国を作り、三国の鼎立(魏・呉・蜀)が形成されることになった。龐統の死によって、その後は諸葛孔明が蜀の戦略を一身に担うこととなり、戦略の一本化が行われたと言える。蜀の国がスムースに形成されたことと魏への北伐の動きがなされ、三国の歴史が大いに揺れ動く原因となった。そして、歴史には必ず、「龐統が生きていたら」というIfという話が出るものである。私は性格が違う二人は並び立たずと思うが、それは読者の視点(清廉潔白な孔明VS清濁を併せ呑む龐統)の違いからくることであろうと推察する。
 この2つの例を見ると戦略家が二人のいると「両雄並び立たず」が世の中の常ではと思っている。また、小さな船の中でも2人も船頭がいると、どちらの方向に船を進めるべきかで、大混乱になるは必定である。目の前の案件がスムースに進まず、まとまりがなくなり、組織としての力は低下すると思われる。
 以前、勤めていた企業でもいくつもの戦略が出されるとどの戦略をとるべきかの大論争が起き、組織としては困惑する。戦略家として名を成した、孫子もクラウセビッツも有能な戦略家が同じ陣営の中にいれば、「両雄並び立たず」である。2人に戦略と戦術というように明らかな棲み分けができれば救いようがある。しかしながら、世の中では、嫉妬などの感情が沸き起こり、組織としては分裂の憂き目にあうと会社や組織の歴史は示していると思っている。二人に差があることが不幸にならないことかなと思ったりする。大きなことを考える人と細部の戦術を担当する人と役割が違えば、ぶつかり合うことはないと思われる。小さい組織では戦略と戦術は同時に行うものであるから船の船頭が二人も必要ないのは自明の理であり、どちらの策をとっても少し回り道が違っているだけで、結果としては少しの時間の差異はあるが、いずれ目的は達成されるものである。どのような考え方を、その時にとるべき施策かは劉備や秀吉のようなトップが選択すべきことである。いずれにしても二人の船頭は無駄であり、組織としてはもったいないことである。

画像:龐統祠墓の像(左:龐統、右:孔明) 上永氏撮影


   



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