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【明石邦彦のつぶやき】神教の環境の中で育ってよかったのか? |
2026/9/25 |
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日本人は幼少期から仏教や神道の影響の中で育ってきたので、どこにも神という存在があるのを感じている。自然の中にあるものを唯一の尊いものと考えるとその存在は価値があるとして神の化身に相当すると考えることが一般的な思考である。例えば、自分自身も優れた点、卓越したものがあると信じれば自分を神に例えてしまうのではなかろうか。だから、日本では色々な宗教があちこちに出来てくるものだと考える。鬱蒼とした森、急峻な山岳、大きな巨木など、自然の中で抜きんでているものを見るとそこには神が宿ってるのではと考える。一種の神々しさを感じて、ついつい尊厳のまなざしをもって接するものだ。虫採りにおいても、抜きんでて珍品を捕まえる人は神の手を持つ人として尊敬されるものだ。私から見れば崇拝の念を持つ対象となれば何でも神であると言える。神という存在が身近にあり、侵すべからずとして、その相手とは無理な争いをしないものだ。リスペクトすべき存在として敬ってしまう。仏教徒には寛容の精神や優しさがあるのかなと思っている。こうなると多神教の中ではあまり戦争は起こらないのではと思ったりする。日曜日(9/13)に屋久島の宮之浦岳(他に永田岳、黒味岳)に登っている人のTV放映がなされていた。もちろん日本人には山岳信仰(大きな石の裂け目に祠があり、祭壇が設けられていた。また、巨石そのものを対象とする)や屋久杉の巨木や山頂付近に咲き乱れるシャクナゲの見事さ(白、ピンク、赤の花)に対して神が宿るなどの表現(2人の対話で随所に崇拝の念が出ていた)がなされていた。このように多神教に結びつく信仰が誰にでも根付いていることも一般的な話だとして理解できた。日本人には色々な所に神がいて、尊敬されるものとしての信仰が根付いているようだ。
しかしながら、世の中では争いごとがたくさんある。ウクライナ戦争しかり、イランとアメリカの争いにしてもそうだ。イスラエルに引き回されて、トランプ大統領のディール扱いの戦争である。トランプ政権は弾薬の限りを尽くし、イランを象徴するハメネイ師を爆殺した。イランの頑固な象徴を殺し、早めに屈服させる戦略で臨んだのであろうが、逆にイランは屈服する姿勢を示さない。むしろ「ハメネイ師が爆殺されたことを屈辱と思い、国民は一層結束した」というように反発を生んだ。トランプ大統領も軍事でダメなら、経済的な締め付けを強めたりして、いろんな手を尽くしてもこの戦争は長引くことだろう。長引くことの一つには宗教の違いがあるように思える。どちらも砂漠の厳しい環境から発生した宗教であるから「負けてたまるか、死んでたまるか」という精神である。キリスト教もイスラム教も一神教である。砂漠のような環境下で、厳しい生存競争をしてきた歴史が底流として流れている。2つの宗教の間には約千年以上の闘争の歴史があると考えた方が良いと思う。本当は相手の息の根が途絶えるまで戦争を継続したいのだが、どちらも宗教的にみれば世界に広がった大集団である。どちら側にしても一方を根絶やしにはできないとわかれば、どこかで妥協するという、手打ちの式を打たざるを得ない時がくるだろう。トランプ政権やネタニヤフ政権も選挙結果や凶弾で倒れるなりして、終わりを迎えるときもあるかもしれない。人類の歴史から見れば短い時間での出来事となるだろう。その後、争いの反省を活かした動きとなり、人間の知恵が積み重なった妥協点が演出されることになるだろう。
大学1年の時、アーノルド・トインビーの一神教の本を英語の教科書として学んだことがある。英語の先生が何故この本を教材として取り上げたのかは知らないが、私にはなぜか興味をひかれた。別に、キリスト教の信者になるつもりはなかったが、我ながら宗教に対する興味が強くなったことを覚えている。当時は原理研究会(旧統一教会の前身)や真光教などが学内や街角で若者たちを説き伏せていた時代でもあった。逆に、仏教の方でも色々な取り組み(創価学会だとすれば折伏)をしていたようである。私は葬式や法事に出る度に、寺の住職(我が家は浄土真宗)が話する講和を面白く聞いたものである。寺のご住職は西日本新聞の編集者としてそれなりに有名であった。住職の法話は世の中の流れと仏教の教えを結び付け、分かりやすく解説してくれた。そして、仏教(浄土真宗)とキリスト教とは考え方が違う(1神と多神、自我と無我など)ということが私なりに頭の中に根付いたようである。私の学生時代は原理研究会の説法や全共闘、民生系、核マル派、中核派など、学生運動が盛んな時期でもあった。学生の満たされないエネルギーを吸収するため、このような運動が盛んなことは裏を返すと若い人たちが自分の進むべき道をどのようにすべきか迷っている時代であったかもしれない。私はその頃ノンポリの学生だった。世間ずれしていない私の頭の中は白紙状態で、これから如何様に染め上げるかの途上であった。一度だけ、学生運動でデモに参加した時があった。警察官と対峙した時は身の毛が逆立つ興奮と寒気を覚えた。そして、ちょっとした興味や冷やかしで、デモに参加するものではないと実感した。自分の考えをしっかり持って、対応するのが大人の行動と責任であると思った。何の考えもなしに、デモに参加する軽はずみな行動を大いに反省する機会となった。
さてさて、アフガンなどの戦争を見ると一神教の対立は根深いところがあるということを知ると簡単に戦争は終わらないものだと確信できる。しかしながら、キリスト教の中にもプロテスタント系とは違い、カトリック系では色々な部族を統合してきた歴史から部族の宗教を取り入れながら発達してきたといわれている。多神教的な一面もあると教えられた。それなりの証拠はお祭りとかどこかで見えるものなのであろう。建築物や芸術にそのような影が見られるのかもしれない。それにしても中東の戦争(イランとイスラエル)は一神教の争いであるので、表面上は収まっても地下ではそれなりの憎しみは続くことになるのだろう。砂漠で生き抜くということは大変なことだと理解するに至った。しかし、多神教の仏教はどこにも神が存在し、リスペクトされる存在である。お互いに共栄するのを基本としていると思うので、助かっている一面があるのだと思った。生まれてから81年、憲法9条の御蔭で平和があると思うとGHQには感謝?しなければならないのではと思った。
画像:1.宮之浦岳の巨石 2.山頂付近のシャクナゲの花
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