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【明石邦彦のつぶやき】「変わるもの」と「変わらないもの」の逆転現象 |
2026/7/27 |
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ヤフーのニュースで養老先生が「変わるもの」と「変わらないもの」の逆転が起きていることを話題にされていた。生き物(人)はどんどん変化するものだが、情報は人の中に留まっているので、変化しないものと述べられていた。「逆転」というのは何の話なのかと興味をそそられた。
先生の言によれば、「万物は流転する」が、「万物が流転するという言葉」は流転しない。流転しないものを「情報」と呼び、昔の人はそれを錯覚して*「真理」と呼び、「真理」は不変だと思っていた。しかし、不変なのは「情報」であると。
そうなると以前、話題にした「長幼の序」も情報であり、「真理」ではなくなるということかなと思う。時代とともに真理とされていた物は真理ではなくなってきているという理解だ。すなわち、千年以上も経過すると受け継いできた人たちも代替わりし、時代が変わるとその考え方は次第に変化していく。そうなると真理と言えなくなることもあるに違いない。「長幼の序」も現代に合わなくなって、一部の人たちは理不尽な上下関係に異を唱えて、不都合な部分を修正しようとする。そして、対等な人間関係を尊重すべきだと主張するので、変化しつつあるようだ。このようなことも一つの変化した情報だとすれば不変の形として残ることにもなると考える。
さて、人は流転することを意識しなければならない。人は日々刻々と変化していくものだ。過去の自分は情報と化していく状態なのだ。人の意識は自己同一性(自分は変わってはいない)を追求するので、「昨日の私は今日の私と変わらない」と言い続けるものだ。「変わりつつある」、または「変わっている」という自分をおそらくは認めたくはないのだろう。現代人に「人は変わる」ということだけを叩き込むと都合のいい解釈をすることになる。「昨日、お金を借りたのは俺じゃない」となると世間の人が困った結果となる。「お金を借りた昨日の人が今日になると変わってしまったら貸した相手は困ってしまうでしょう」と述べられている。また、養老先生は「約束を守るという言葉が近年軽くなってしまった」と言われる。その例として、政治家の公約を挙げている。政治家が選挙で掲げる公約はまさしく軽くなって、公約破りが横行しているのが現実である。だが、選挙で投票する人も政治家の公約とは軽いものだと思っているので、政治家の言ったことに拘っていない。何故なら政治家は同じ人なので、公約(発言していたこと)の表現の仕方が少々違っていても、本人は変わらないので、いつの日か、実現できればという許容の範囲にあると思っているのではなかろうか。でも、何度か裏切られるとそうはいかないはずなのだが、人情やしがらみの関係でついつい許してしまっている。「情報は不変だが、人は変化する」が基本なのだが、投票した人は「その人は変わらないので、実現しない公約にも拘らず、厳しく叱責する必要はない、まあいいか」と思うようだ。いつの間にか変わるもの(人=政治家)と変わらないもの(言葉=公約)があべこべになってしまったそうだ。
「武士に二言はない」という言葉があるが、武家政治の時代は約束を守らないと命にかかわるので、多くは語らず、一層寡黙になって、ボロが出ないようにしたそうだ。
この記事の延長線で考えてみると約束が軽くなった現在は「走れ!メロス」のようにはいかないだろう。政治家自らが公約した約束などは「糞くらえ」の感覚だ。その時の時代(環境)が言わせたもので、政治家本心では微塵も思っていなくてもよいという感覚なのだろう。政治家は自分が発した情報を変えることはできないと自覚している。また、変化する自分がいることにも気が付いている。だが、「自分という個体は変わらないので、時代(環境)に合わせないと生き抜けない。自分(生物個体)は変わらないけれど約束は変化するものだ」と自分に言いきかせているのだろう。このように考えると世間のスタンダードが変わってきているということを理解しなければならない世の中になるということだ。私たちは視点や視座を少し変えて、物事を見るのが賢明な過ごし方かもしれない。
「変化するものとしないもの」とか、真剣に考えてストレスをため込み、その結果が鬱になったら大変だ。私は言葉の定義に完璧を求めないようにしようと考える。また、不変だという政治家の言葉を信じないけれど「まあいいか」で乗り切ろう。「まあいいか」や「なるほど」はASDの息子が自分の心を安定化させるときに、自分を納得させるための言葉でもある。これらの言葉をあらゆる場面で使ってみると少しはストレスが解消できそうだ。「なるほど」、「なるほど」、「うーん、まあいいか」である!
書き終わるにあたり、養老先生の言葉の意味を理解・解釈するのはいつも難しいと私は思っている。先生の書かれた本を読み、考えの本質をつかみたいものだ。だが、そこには人並ならぬ苦労はつきものだろう。大変なストレスとなるかもしれない。その結果、「先生のおっしゃることはよくわかりません」となるかもしれない。先生の返事として「うーん・・・。それでも、まあいいか!」を期待しよう。
私は養老先生が虫の採集家であるというつながりで、多くの発言や行動に関心を持つので、一度ペンションすずらんでお会いしたいものだ。先生は去年も今年も4月初めにペンションすずらんに来訪されている。そして、採集ノートに言葉が残されている。ただ、4月初めはカミキリムシのシーズンではないので、無理がある。先生が目的とするゾウムシもまだシーズンではない。何を採ろうとして、ペンションすずらんに来られているのだろう。まさか土の中で冬ごもりしているオサムシでも採集されるのかしら。ピッケルを使いながら土手の土を掘り起こされている姿をどこかの放送局で見た記憶が蘇る。道志村での映像を見ると、将来を託す子供たちの生き物に対する興味に応えるためには、自分の専門ばかりではなく、他の領域にも通じるように努力が必要だなと思った。好奇心が長続きするほど、がんの増殖は抑えられると考えるべきであろう。
*真理:日常語では「永遠不変の正しい筋道」「真実の道理」
哲学では「思考(認識・命題)と現実の事態の一致」と説明される。
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